池田家と初代伊木清兵衛忠次
伊木氏の祖は、相模国(神奈川県)香川庄で香川を姓とし、尾張(愛知県)に移住して、香川七兵衛の子、長兵衛が織田信長に仕えた。永禄3年(1560)5月の事。
今川義元を桶狭間で打ち破った信長は、翌4年、徳川家康と和睦、専ら美濃斉藤をせめた。
斉藤氏属城伊木山城を攻略した長兵衛の功績を愛で、信長公が「伊木を氏とし清兵衛忠次を号とせよ」とのお褒めより、名を改め伊木清衛門忠次となった。
「苦戦してもひるまず、冷静に戦状把握、機を見て進撃するは、毘沙門天のごとし」と信長にほめられた弱冠19歳の時だった。
又、池田家の祖である池田勝三郎恒興(信輝)は、母が勝三郎を出産した時、吉法師(信長)の乳母として仕えたので、信長と恒興は兄弟のようにして成長した。
そして、池田恒興が桶狭間で功をたて、侍大将として信長に抜擢された時、家老として、森寺藤左衛門をつけてもらった。
森寺は、恒興を援け池田家臣団の編成に着手、信長麾下の内で、知勇兼備・見識断然光をはなっていた、伊木忠次を、主君恒興を通じて、信長の許しを乞い第一家老として迎え入れた。
伊木清兵衛忠次はこれ以後、池田家家臣団の中心として、良く主君恒興を援け、名声を上げる事に尽くした。
以来、天正10年には、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀と共に、主君池田信輝(恒興)は織田宿老と破格の出世をとげた。
後に備前藩政時代に至っても、国政の枢機に預かった家老は6家で、みな家臣団編成の時の譜代の家臣が、苦労をともに尽くしてきた。これが池田家の強みであり、まとめた伊木家の努力は、実に賛に値するものである。
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